1922年に日本共産党は結成されました。天皇制廃止、侵略戦争反対、自由と民主主義を求め、文字通り「いのちがけ」でスタートしました。私は、歴史でしか知りませんが、天皇制に意見をいうだけで死刑判決という治安維持法が1925年にできたのは、非合法とは言え、日本共産党が結成されたからでした。結成当時から、支配者は日本共産党が大きくなることに最も警戒したわけです。
しかし、小林多喜二に代表される文学者をはじめ、女性たちもその戦列に加わったのは、戦前の日本共産党の示した理想が、いかに希望jにもえる青年の心をつかんだかがわかります。
私が、入党したのは大学生の1998年5月。先輩のよびかけに応えたことがきっかけでした。「私でできることがあれば」と、政治変革への道を歩み始めました。父は、私が入党してまもなく他界。社会は簡単に変えられないと意見がぶつかりあったままになってしまいました。母は、何もいいませんでしたが、いなかに帰ってきて活動するなという態度でした。私が生まれた栃木県は、教員採用枠が少なく、最も多い東京都に採用されました。当時は、美濃部革新都政の時代でした。
教員になったばかりの時は子どもたちと気持ちが通じないこともあり、教員にはむいていないのではないかと考えることもしばしばでした。先輩から、悩んで当たり前、悩むからこそ成長できると励まされたことがその後の私の姿勢となりました。子どもたちとすごした38年間は反省することが多いのですが、子どもたちから学んだことがたくさんありました。子どもたちと関わる仕事ができたことはすばらしいことでした。
定年退職後、日本共産党の区議会議員として今新たなスタートです。はじめて体験することがおおいため、何か、40年前の教員新規採用時代にもどったようです。文字通り、第二の人生です。すばらしい仕事を2つもできるのは本当に光栄です。学んだことが活動にいかせるのもうれしいです。区民のみなさんとの対話は区政をかえる原点でもあります。政治家としては、区民要求実現が大きな仕事ですからね。
議員になって地域のみなさんと行動することが増えましたが、9月25日、日本共産党中央委員会及び「あかはた」編集局、あかつき印刷所の見学にいきました。夜中に編集をおえて、印刷され、新聞が届くまで多くの方の力があること、そのしくみがよくわかり赤旗新聞を増やしたいと思って帰りました。
また、あかつき印刷は、東京都の仕事も入札で獲得してやっていました。大手の新聞社に比べると印刷機械を運用すれば別の仕事ができるそうです。また、北上市の赤旗新聞印刷工場は、新品の機会を導入した数日後に大震災にあって壊れてしまったそうです。
帰りは、スカイツリーのそばを通り、バスの中から見学をしてきました。観光バスが橋のところにとまり、観光客がカメラをむけていましたね。私たちは、停車すると帰りの時間が遅くなるため、素通りでかえりました。
マイクロバスでたくさんの方が参加しました。これからも多くの方の声を区政に反映できるようがんばります。