2011年8月 のアーカイブ

家で看取る

2011年8月30日 火曜日

2011年8月16日、新潟市在住の義父が永眠しました。葬儀ならびに初七日を終えて、22日に江戸川区にもどってきました。

義父の看病を通して、家族としてどう看取るかということを考えさせられました。夫は、私の母が2010年3月に亡くなってから、自分の親も先が短いということを実感し、2010年8月末で退職し実家で母を援助しながら父の介護をはじめました。父は94歳、母は87歳でした。夫の職場の方から、奥さんはどうするのかと聞かれました。夫婦で親と同居するのが自然ではないかと思いましたが、私の仕事のこともあり、夫は一人で十分だというのでしばらく甘えることにしました。

その後、私に区議会議員立候補の話があり、夫と義母に相談したところ、義母は、「美枝子さんの好きにしていい」と。私は応援してもらって本当にうれしかったです。葬儀が終わってから、選挙中に亡くなったら大変だと思っていたと話していました。ありがたいことです。

とはいっても、日常の介護は大変です。認知症が進行し、幼児のようにふるまう義父です。特に、昼夜逆転の時は大変でした。まだ夫は同居していない時でしたので、ショートステイをくりかえすことにしました。ショートスティ何回目かの時、夜寝ないので退所してほしいといわれ、急遽、別の施設を探してお願いしました。何かあったら退所という施設は多いのでしょうか。いざという時にたよりにならないのはつらいです。夜寝ないので大変かとは思いますが、退所といわれては義母も体力が続きません。2番目の施設は、やや小さい施設ですが、対応は丁寧でした。しかし、本人はいきたがりません。ディサービスに送り出すために、義母は、朝から着替えさせ、準備し、いやがる義父をなだめて送り出し、帰ってきたら洗濯と、ディサービスも大変だといっていました。(義母の支援に買い物ペルパーさんを頼んでいましたが、夫が同居したため申請できなくなりました)また、義父の体力がなくなり、おむつをして寝たきり状態になった時、訪問介護や往診があるからと毎日掃除をしていました。結婚して約70年、ずっと家庭を守ってきた主婦としての力量はすばらしいです。

6月ごろから誤嚥性肺炎をくりかえし、点滴をうける日々となりました。少しでも延命するためには、胃に穴を開ける方法しかありません。しかし、最後まで家で看取ると決めていたので、自宅療養としました。私が8月13・14日に帰省した時は、眠っていることが多かったのですが、16日に息を引き取るようには見えませんでした。家族に見守れ、眠るように息をひきとったのは16日の午後8時55分。認知症で「おれはばかになった」と苦しむ時がありましたが、最後は、幼児のように食事を「おいしいなあ」といって楽しみにしていた義父です。母は、義父の介護がなくなり気が抜けたような状況がありますが、一日も早く、自分のペースをとりもどしてほしいです。

核兵器も原発もない世界を

2011年8月12日 金曜日

2011年原水爆禁止世界大会に参加しました。全国から参加した7000名の人たちで開会全体会会場は満杯。私たちはやっといすにすわれました。

来賓の田上長崎市長、被爆者の訴え、国連事務総長代理とあいさつが続きます。私は、国連事務総長の代理であるセルジオ・ドゥアルテさんに注目しました。彼は、昨年5月の国連NPT再検討会議の際、日本から持参した約700万筆の署名をわざわざうけとりに来てくださった方です。しかも、今回は、代理とは言え、はじめて、国連事務総長のあいさつをうけたことは、この原水禁世界大会が国連の認知をうけたことになります。なんと心強いことでしょうか。核兵器のない世界への方向が一層強まったのではないでしょうか。

しかし、日本は、菅首相の式典あいさつにあるように、あいかわらず、究極的な核廃絶の立場です。世界は、核兵器禁止条約締結の方向にうごいているのに、被爆国の首相としてあまりにもなさけないことです。

私の大会参加は16年ぶりです。前回は、小学4年生だった娘の百合子と一緒でした。今回は、議会の都合で二日間しか参加できなかったことが残念でした。分科会は、吉井英勝さんがパネリストである「核兵器・原発とエネルギー問題」シンポに参加しました。今大会は、原発ゼロの課題が大きな関心を集めたことが特徴だったのではないでしょうか。原発ゼロを決めたドイツもイタリアも大きな住民運動がその力となっとことも学びました。核も原発もいらない大きな世論作りのためがんばります。

第57回日本母親大会・広島

2011年8月1日 月曜日

IMG_2126日本母親大会がはじまったのは、1955年。1954年のアメリカのビキニ環礁における核実験で被災した第五福竜丸の事件がきっかけでした。被爆国日本が核の危険を訴えよう、核兵器・放射能から子どもを守りたいと。今の福島原発事故と重なります。今年は、7月30日31日にあの広島で開催され、「いのちを生み出す母親は いのちを育て いのちを守ることを のぞみます」のスローガンがさらに心に響く大会となりました。

記念講演は、反貧困ネットワークの湯浅誠さん。「人間らしく生きられる社会をだれが作るのか。それは、私たちだ」そのために、「つくることと、求めることが大事だ」、「地域や状況によって違ってくるが、たとえば、共同保育所など、いろいろな分野ですでに行なわれてきた。ないものは作ろう」とよびかけられました。(私は、この導入の話から、特に、共同保育所を作ってきたものとして、共感。)

湯浅さんは、ホームレス支援を頼まれたわけではない、この活動を通して学んだことがたくさんあると。高校中退の子は、排除されつながりも切れている。学校の先生が担うのは無理がある。中退してもうけとめるところが必要。未婚率の高さ、30代前半男性の未婚率は49%、7割の女性が年収400万以上を求める。50代男性の未婚率は、1960年で1%、1970年2%、2005年15%。今は、生活はぼうっとしていてはできない時代になっている。

若い人の自殺が増加。13年間日本は自殺者が3万人を超えている。異常だ。そして、本当に異常なのは、驚きがなくなっていること。交通事故死は年間5000人を切った。事件で年に約600人殺されている。増えるこどもの貧困率。

湯浅さんは、お兄さんのことにふれ、障害があるが25年働き続けており、母親は教員を退職した今は自由な時間を楽しむ、兄が仕事ができていることでまわりがうまくいっていると家族を紹介しました。(障害があっても社会に関わって生きる場はまだまだたりません。)

貧困・自殺は人の心に傷を残す。自分をせめるようになる。ホームレスは病院がうけいれない。本人も、自分たちは、世の中にめいわくをかけているからといきたがらない。ないからしょうがないではなく、ないから作る。生活が生きるために必死になるのではない社会を。ぼちぼちいきましょう。と、講演をまとめました。湯浅さんのかざらない話しぶり、8700人の会場をまきこんでの対話を含んだ講演に学ぶことがたくさんありました。

全体会の東日本大震災と川崎なつ記念室維持カンパの訴えは、300万円をこえました。昨年の福島大会では、私が大会運営委員としてカンパを訴えました。今年は、千円札を入れた方が多かったですね。

特別企画のクミコさんの歌とお話も期待通り。「INORI~祈り~」の歌を広島で聞けたのは何よりでした。偶然、NHKの番組で彼女のことをとりあげていましたので、震災当日に石巻市にいて被災した体験もよくわかりました。震災後歌うことができず、再び石巻市で歌えて歌手としての再出発ができたとのこと。

運動の交流は、被災地3県からの訴えからはじまりました。特に、福島の4歳と9歳の母親の決意「すみつづけられる福島にしたい」は涙がでてきました。大阪の日の丸・君が代のおしつけ、日本航空指名解雇、TPP、消費税、普天間基地と次々に訴えがあり、私は、大きな拍手で応援しました。どれも権力の横暴にたちむかっているたたかいです。母親・女性たちのエネルギーを感じます。最後は、15基もある福井県をはじめ、上関(山口)、伊方(愛媛)、玄海(福岡県)、浜岡(静岡)から、原発は要らないのとりくみの報告があり、会場の参加者と思いを重ねました。原発からの撤退を決めなければ、将来に禍根を残します。全国の母親女性たちが子どもを守るためにこんなにがんばっている、それを実感できる全体会でした。

私も江戸川の仲間17人と参加でき、うれしかったです。来年は新潟です。また参加できるように1年間がんばります。