子どもの頃、戦争だった 高岡しんごう

大先輩で尊敬していた高岡しんごうさんが6月26日、永眠されました。私は、ご病気だったことは全く知りませんでした。それは、6月23日付の江東退職教職員の会のニュースで高岡さんのエッセイ「こどものころ 戦争だった 名前のことなど」を読んだばかりだったからです。お通夜には、たくさんの方が訪れ、その活動のつながりの広さがあらわれていました。中でも、このところ、憲法学者として、赤旗にも登場するようになった小林節さんの名前が注目されました。告別式では弔辞を読まれたそうです。この1年特に親交が深まったとのこと、高岡さんの生き方が多くの方に信頼されてきたのですね。心からご冥福をお祈りいたします。私も何よりも平和憲法を守りためにがんばります。

高岡さんの投稿をご紹介します。

生まれたとき、この国は戦争をしていた。小学校に入るとき、国民学校に変わった。「お国のために戦って死ね」と教え込まれた。

私が6歳になった4月、その年(1941年・昭和16年)から小学校が国民学校に変わって最初の入学式。東京市芝区(現在の港区)御田国民学校。担任になる教師が新入生の名前を読み上げると、返事をして立つ。私の番が来た。教師が「タカオカ」と姓だけ読んで絶句したまま、数分。次の子の名前を読み上げた。私は座ったままだった。帰宅後、母から「タカオカ・シンゴウといいますと自分から言わなければダメよ」と言われたが、読めなかった教師に、それとなく不信感を持ったのは否めない。私の名前を初めて見て読めた人は、今まで80年、一人もいない。だから、名刺にはフリガナを入れている。昭和9(1934)年、5月30日連合艦隊司令長官・東郷平八郎が死去。日本初の国葬。その月、6月27日に誕生した私に、漢字に興味が深いとされていた祖父が東郷平八郎の「郷」と当時海軍大臣・大角岑生(みねお)「岑」の音読みで「岑郷」(しんごう)と命名し「末は海軍大将に」との期待を込めたという。「満州事変」からの日中戦争は始まっていたのだから、正に軍国主義の申し子だった。名前は生まれた時代と深い関わりを持っている。60歳を超えてから韓国の友人を訪ねた折、日本が朝鮮植民地支配の時、1939年(昭和14年)に皇民化政策で、朝鮮人から固有の名前を奪って日本式の名前に変えさせた「創氏改名」で、1940年に誕生した弟が、生まれた時から「英雄」と日本名を付けさせられて、1945年8月15日の解放後からの朝鮮名は、通称のまま今に至っていると聞かされた。

私は、子ども心に期待に応え、国民学校3年生のころから広島県江田島の「海軍兵学校」(海軍の将校になるエリートの学校)へ進路を決めていた。4年生になった時、学童疎開が始まった。その頃私は虚弱体質で、医師から集団疎開に耐えられないことを告げられた。父母と二人の姉、一人の妹の6人家族が、夏休み中の8月にこぞって父の実家のある新潟県の寒村に縁故疎開した。翌年、1945年8月、戦争は終わった。

5年生の時、戦争は終わった。新制中学校で『あたらしい憲法のはなし』に出会った。「戦争放棄」の挿絵がまぶしかった。

1945年の日本男子の平均寿命は23.9歳だった。それから70年。地球上から戦火が絶えなかったが、この国は憲法9条で戦争は放棄してきた。2013年に、日本男子の平均寿命は80.21歳となった。私も生かされて80歳・傘寿を超えた。

今、この国が、ふたたび「戦争する国」に変えられようとしている。「子どもの頃、戦争だった」その時に名づけられた名前の由来を忘れず、この国の歴史に向き合って、戦争は、子どもの時の「思いで」だけにしたい。

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